旧霞ヶ浦海軍航空隊基地アビーム2015年02月09日 17:03

ハンガーinするとすぐボクササイズ。ストレス解消にサイコー。結構いい感じの左フックが打てるようになってきた。

W3には毎週チョイ乗りしている。

M田師匠の作業は必ずチェック。相変わらず「芸術的」。作業途中がやたらと美しい。トップ塗装で隠されてしまうのが惜しい、と思うほど。

耐空検査を受けるDG800。組立てをアシスト。

「木漏れ日」ならぬ「雲漏れ日」とでもいうべきであろうか。神々しい、けれど寒々しい冬の空。

筑波山の北斜面には残雪・・・。

この季節、この高度だと、すき間風で両足が冷え切る。

ピッチを下げてコーションレンジまで突っ込んでも・・・

GSは60ノットくらいだったり。

2500rpm巡航しても、オイルテンプ/CHTは下限に近かったり・・・

W3と25Bが揃って運行&運航可能になったことを記念して、こんなキャップを特注しました。「HANGAR W3&25B」と刺繍してあります。筑波山界隈高度4500ftにて自分撮り。

夜はハンガーにてシミジミと模型ヒコーキの製作・・・。

           「旧霞ヶ浦海軍航空隊基地アビーム」

筑波山への往路、右手霞ヶ浦にほど近いところ、旧霞ヶ浦海軍航空隊基地(通称「予科練」の訓練基地)のアビームを通過する。
 この空域を飛ぶとき、僕はいつも厳粛な気持ちになる。70余年の昔、この空域で、今、僕が見ている空と同じ風景の中を、予科練の訓練生達が、あるときは練習機「赤とんぼ」で初単独飛行に飛び立ち、あるときは特攻隊志願兵が零戦で模擬突入訓練に励んだのだ・・・。

「零戦に搭乗して、模擬突入訓練」!!!!!!!!!!

どれほどの振動であったろう?。どれほどの急角度のピッチ下げであったろう?。唸りをあげる「栄」1000馬力のrpmは?どれほどの轟音、爆音であったろう?。その急速降下の姿勢で、どこまでスロットルを開けていくのか?それとともにラダーを踏んで標的空母に機軸を向けるべくヨーコントロールをするのか?。あるいはエルロンを切りロールしつつエレベータの操作で敵艦にヘディングするのか?、どれほどの動翼の、舵の、操縦桿の重さであったろう??その急速降下の最中、爆音にさらされ、激しい振動に耐えながらも、突入を伝えるモールス信号の電鍵さえ、操作しようとするのかっ!!!

訓練であっても、正気の沙汰ではない。戦慄を覚える。

 世間様はいろいろなことを言う。やれ皇国史観だとか、自虐史観だとか、やれ洗脳だとか。あるいは「英霊」だとか「散華」だとか。
 しかし、そういうふうに、例えば「特攻隊」などとひとくくりにして評論できるものではなかろう。「皇国史観に洗脳」された人もいたんだろうし、内心では「そんなもんアホか」と最期まで自由意思を貫いた人もいるだろう。

 時代こそ違えたが、同じ飛行機乗りの端くれとして、彼らと語り合ってみたい。あなたがたはどんな気持ちで、「この」空を飛んでいたのですか?と。
 彼らが最期の刹那、例外なく望んだことは、きっと、この国の行く末の栄華と平和。そして、その悠久の大義を思えば、今、自分が死ぬのは仕方がない、という諦念。「明日、この世に自分はすでに存在しない」という厳然たる事実と向かい合って、到達したその境地とは・・・。想像を絶するものがある。

 そんなふうに、僕は、ただ極めて個人的に想像し、そして自分が「真っ当」な人間であるために、彼らを忘れずいたい。他の人もそうすべきだとか、そういうことではありません。

 「自由と平和」とは、厳しいものだ。権利の行使には必ず義務が伴うし、あらゆることが自己責任を帰結する。「自由」に耽溺すれば、肉体も精神も滅びるだろうし、「平和」であることに流されてしまえば、日毎に「危機管理能力」や「自分で自分を支え、護る能力」を失っていく。

 「自由と平和」だから良いことづくめ、であるはずがない。何かを得れば何かを失うのが、モノゴトの道理だ。
 「均衡」ということを考える。世の中の、歴史上のあらゆる事象を「バランス」と措定したとして、 「自由と平和」を仮想天秤の左皿に載せたとき、右皿に載せて釣り合うものとは、いったい何なのか??? 
 均衡するその天秤の右皿に在るであろう「厳しさ」を僕らに伝え、残そうとしてくれたのも「彼ら」なのだと、僕は思っている。
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・・・と、書くと、文章がカタいですが、例えば、目の前に「ようかん」が2ケあったとする。で、1ケ喰った。美味かった。もう1ケ、喰っちゃおーかな、というときに、「特攻隊」。
 いや、まてまて。彼らのことを考えれば、ここはひとつ、謙抑的に振る舞おうではないか・・・ということでダイエット。

あるいは、ジムで筋トレしているとき「ここんとこ、トシ喰ったせいか腹筋50回がキツいなー」というときに、「予科練」。
 いやまてまて。彼らの訓練はこんなもんじゃない厳しさであったろうな。しゃあない。あと10回、やるか・・・ということで強筋。

「自由と平和」は厳しい。まったくもって厳しい。何をしても自由、ということは、何もしなくても自由、ということだ。それでもって生命身体に対する危険はほとんどなく、世の中は誘惑だらけ。
 コンビニには安価な食い物が溢れかえり、喰いたい放題。休日、ひがな1日、布団に入ってゴロゴロしていても誰からも何の文句も言われない。楽ちんを追い求めれば際限はなく、「寝たきり」に近くなっていく。

 かようにして「自由と平和」の環境は、人をして心身を弛緩する方向のベクトルを与え続ける。故にセルフコントロールが弱いと、とことん下まで落ちていく。「自由と平和」であるが故に、知らず知らずのうちに心身が蝕まれ、気づいたときには、すでに手遅れ。
 こういう環境の中で、自分の「精神」と「肉体」を一定レベルにキープしていくことは至難のことだ、と改めて思う。

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