母の命日2017年03月23日 14:25

2年前のこの季節。
自宅介護で母を看取った。

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例えば、この世に生まれる前に、何か、意識のようなものが存在
するとして、その意識は「そのこと」(すごく大切なこと)を当然のごとく、
覚えている。

しかし生まれた瞬間に、「そのこと」を完全に忘れるように
プログラムされている。

そして生きている間中、ほとんどの人は「そのこと」のことなど
意識すらしない。
 ごく僅かの人が、「そのこと」の本質を見極めようと、例えば
仏道なり、他の宗教なり、あるいは他の「道」に入ったりする。

その道程を通じて、「そのこと」を生きながらにして、
「ああ、そうだった、『そのこと』は、こういうことだったのだ」と
気付く人は、古来、稀なのであり、もしそういう人がいたと
すれば、お釈迦様のような「悟り人」になるのかも知れない。

しかしそういう悟り人は希有であり、人は例外なく、死ぬその瞬間に
「そのこと」を想い出す。
「ああ、そうだった。「そのこと」を今、想い出したっ!!!」

・・・という仮説というか、なんというか。

ベンゴシがそんなオカルトみたいなこと、書いちゃダメでしょ、という人もいるかも知れないが・・・。

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なぜこんなことを書くのかというと、母は下顎呼吸
http://pulmonary.exblog.jp/21433676/
が始まって、息子(小職)とその妻と孫2人に手を取られ、声をかけられ、
最期の呼吸をするときに、大きく目を見開き、宙を「睨みつけた」のである。

それは視線が宙を惑う、という感じではなくて、ビッタシ、ピントが合って
いて、何ごとかのモノを「私は見た」、「そのこと」を今、想い出したっ!!!という感じの表情であったのである。

かつて、生前、母のそのような表情は、もちろん見たことはない。
始めての表情というか、視線であった。

生きている間に、「そのこと」を知るのは毛頭不可能なのであって、
まして凡人たる自分には、普段、その存在の痕跡にすら、気付きもしない。

しかし例えば、特段の芸術に触れたときとか、風が木の葉を揺らす音を聴く時とか、どうやっても説明つかないデジャブ現象に遭遇したときとか、「そのこと」につながる「入り口」みたいなものが、実は人生や今生の世の中の其処此処に存在しており、人は折に触れ、「そのこと」にフト、思いを馳せて、
 
 「アレ?何だったけ?オレ今、なんか、とても大切なことに気付きかけ
 たような・・・」

とか思いつつ、しかし、その次の瞬間には、「ああ、仕事しなきゃ」「飯、
喰わなきゃ」みたいな凡庸なる時間の流れに埋没していく・・・

と、いうことの繰り返しのような気が、しないでもない・・・。

その母の命日が、今年も巡る。
お葬式の日、桜が満開になった。
母は、最期の桜には間に合わなかった。

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