全部同じことを言ってるのではないか?2019年04月15日 22:57

59歳になりました。関係各方面より、お祝いのお言葉をいただき、感謝に堪えません。誠にありがとうございます。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

サテ還暦も近くなりますと、これはもうヘタを打てばあと数年でこの世とオサラバ、ということも想定内とせねばなりません。小職の周囲でも60歳前後で実際にそのようなことになった例や、それにつながる重篤な病に罹患した例が散見されます。

そうなると、この先をどういうビジョンで生きるか、というテーマがかなり切実になって来ます。

自分の人生にはもうこれは要らないな、という思うモノ/関係をバッサリ切り捨てて、持てるパフォーマンスを絞りきった対象に集中し、その成果取得の最大化を図る、そのプロセスをさらに先鋭化して実践していく・・・という方向性になろうかと思うわけであります。

残りの人生の短さを想うとき、やっておかねばナラン、ということはいくつか、まだ残っております。
 「まだ時間があるからいいだろ」と放置しておいたビートルズの楽曲のピアノ弾き語りもそのひとつ。なので練習開始しました。ネットのいたるところにコード進行の譜面がありますもんで。はずせない曲は「The Long & Winding Road 」と「Yesterday」そして「Let it be」。

とりわけLet it beは、この年になって始めて理解できる深さがある。
「なすがままに」「あるがままに」とか訳されますが、違うなあ、と。

あらゆる「くびき」から開放されたとき、自然とその方向へ向かうところの、自分の中にあるものを大切にせよ・・・
というニュアンス。

なぜこんなふうに感じたのかというと、朝日新聞。
これはもうホントにどうしようもない新聞で、マスコミはみんなそうだけど、何も「解決」できないくせに、あるいは解決手段の提示もできないくせに、意見や評価や指摘や非難や批判だけはする。世の中の学者連中も大抵はそうですが。

「言う書く」は、「アタマの中に想起する→言う書く」で終わり、つまり自己完結ですが、「問題を解決する」ということは「実際に自分の外の世界との関わりをもって、その関係性の中で」、何年も、時に何十年も、「実践」をしていくプロセスであるわけなのです。ベンゴシさんは「解決」しないと、明日の米を買うカネも、もらえんのです。「言う書く」だけの連中とは違います。

ハナシが逸れました。
朝日新聞の「(語る 人生の贈りもの)姜尚中:15 いまようやく、自由になった」の中で、姜尚中さんは「自由という言葉は、おのずからゆえをもって、と読めます」と述べています。この言葉がココロに刺さりました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190329-00000012-asahik-ent

いわゆる朝日バイアスがかかっている「意見や評価や指摘や非難や批判」
は、何の解決にもナランので全部読み飛ばします。しかしながら時としてこういう部外者のコメントが珠玉のように掲載されるので、この新聞の購読を辞められません。姜尚中さんは息子さんを自死で亡くされて、大変に悲しい思いをされた方なのですが、その言葉には小職のココロに刺さるものが多々あり、私はフアンです。

もう一度書きます。
「自由という言葉は、おのずからゆえをもって、と読めます」

人生の秋に。仕事も終わった。子育ても終わった。カネも時間も少々はある。さあ自由だ。
・・・ではないんですね。その状況において「自ずから由を持って」(←本来は仏教用語だそうです)、自分の中に泉のように湧き出ずる1本の、本当にか細い水脈を、目を凝らして探して、その道を辿りなさい・・・」

・・・こんなふうに理解できます。

つまり、Let it beです。単に放置して、なすがままに、ではない。必死で探せ、という意味合い。自分の中に。他人の中ではない。他でもない、自分の中に、です。必死になって探さないと、見つからない。簡単に見つかるものは、ホンモノではない。

そうすると、アドラーの「課題の分離」

ものすごく乱暴に言うと「そりゃ人様のハナシだろ。オマエはオマエのことをやれや」ですが、これも上記の「自由という言葉は、おのずからゆえをもって、と読めます」/Let it beとつながるものがある。

他人の課題はあくまで他人の課題であって、人のことはどーでもいいから、アンタはアンタの課題をおやりなさい、と。
 その「自分の課題」とは、他でもなく、「自分の中にある『自由』、あらゆる「くびき」から開放されたときに「自ずから由を持って」湧き出ずるところのもの」・・・。

そうすると、フランクルの「人生『から』の問い」

簡略すると、人は人生『に対して』問うのではなく、逆に、「自分は『人生から』何を問われている存在なのか?」という発想思想。

これも上記の「自由」「Let it be」「課題の分離」と、同じことを言っているように、思えてなりません。

「人生『からの』問い」です。自分の存在理由を自分で考えなさい、ということでしょうか。自分の中にある、何かの水脈を、自分で探しなさい、と。

もうひとつ。姜尚中さんの言葉。
「(古希が近くなった)この年になってはじめて腑に落ちることもあるんですね」と。

そうか。若いうちはワカランけど、歳食って初めてわかることもあるのね、と。これは希望の言葉であります。

しかしこれは逆に言うと、若い頃と感じ方が同じ、というのは、成長していない、歳食った意味がない、ということにもなりますね。

昨日とは違う自分に出会える。それが時を過ごし、歳を食っていくことの醍醐味、なのかも知れません。

しかしそのためには大きな対価を払わねばならない。何もしないでボーッとしていると、自分はいつまで経っても以前の自分のまま、ということになってしまうから。

それでは、時を過ごし、あるいは歳を食った意味がない。

・・・そのようなことをツラツラと考えている、59歳の誕生日なのでありました。そろそろ日付けが替わりましたので、このへんで。

タマランです。