「ヒト」が「モノ」と「紡ぐ」特別の「キズナ」 ― 2019年05月30日 10:35
今日、5月30日は松つあんの命日、一周忌。
この1年の、時の経過を想う。
そして、刮目して周囲を見渡せば、この世の現代はヒトが作った(造った/創った)「モノ」で溢れている。ビルも道路も車もバイクも自転車も橋もスマホも洗濯機もトイレも椅子も机も服も、靴も。
断捨離、ミニマリストなんて言葉が流行る昨今だが、「スーパー/コンビニがあるから冷蔵庫要らない」「銭湯があるから風呂は要らない」「コインランドリーあるから洗濯機要らない」と言ってるだけで、要は誰かに作ってもらった社会インフラに対する依存度を深めているだけ・・・という側面があるようにも思う。
そのインフラを造ってくれた誰か、は当然、強烈な資本主義バイアスが背景にあることが多いから、洗濯機を持たないでコインランドリーに行くヒトは、結局、資本主義に搾取されることにもなりうる。
而して「依存」は、かなりの確率で人間をダメにする。
誰かに何かを頼っていると、その誰かが何かをしてくれないときに、ものすごく困ったり、パニックになったり、ストレスになったり、大きな不満を感じたりして、人間関係まで壊れていく。
自分でできる範囲をなるべく広げていけば、そういう悪性スパイラルを回避することができる(・・・ことが多い)。
だから、他者に対する依存度を、なるべく減らすようにして生きて行くのが、結局は一番、安心でラクチンだ。
社会や他者でなく、「道具と材料」という「モノ」(+自分のスキル)に依存するほうがまだマシ、という局面が、この世には(この生には)多々あるような気がする。
そんなふうに考えていくと、「自分の手に負えないものを手に入れるのはやめよう・・・」という発想にもなって、無用な物欲からも開放される。
原野にひとりぼっち、放置されたら。
まずは水の確保が急務だ。
そのためには「道具と材料」という、「モノ」が要る。
そして、ヒトはモノを造りはじめる。
だから、ヒトとモノとは、特別の深い絆がある。
モノは要らない、なんて嘘ぶいていられるのは、高度に資本主義が発達した、便利極まりない環境に安住しているからだ、とも言える。
人間以外の、人間に一番近いチンパンジーは、モノを必要としない。彼らは群れと食料(それを入手できる環境)、それだけあれば足りる。他のモノを欲しがらない。しかし人間は、そうはいかない。だからモノと特別のキズナを結べるのは、人間だけだ。その一方で、物欲という煩悩にとらわれて生きざるを得ないのも人間である。
「モノ」との付き合いはマコトに難儀である。
それにしてもコンビニ、スマホ、ネットEC、ホムセン、アマゾン、AliEX、グーグル、ヤフオク、ebay・・・なんて便利なんだろう。これは実に、ヤバい。
依存しないで利用する、というスタンスを維持することが、「現代の」「先進国の」「高度資本主義」社会の中で、問われることなのだろう。
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あらためて、松つあんと過ごしたこの15年の、時の流れを、想う。
僕がプレゼントしたツナギを着てます・・・。
偏屈で。
厳格で。
意外とひょうきんなところもあり。
意外とウッカリ者で。
頑固もので。
このころは、毎週末、四六時中、松つあんにくっついて回り、あらゆることを学んでいた。
木製フレームを組む・・・
コンクリハンマードリルで床に穴開け、アンカーを打込み、頑丈に固定。
分厚くて、とても重い24㎜材。
さらにウレタン塗装コンパネを載せて接着、固定。L字型工作台。
松つあん遺品の「旋盤」ベンチを製作、セッティングしたのでした。レベル出し、芯出しもやらねば・・・。
その旋盤のハンガー搬入を手伝ってくれた航空整備士のさんちゃん。
曰く「これ、スゴク欲しいです、松つあん遺品の。譲ってくれませんか?」・・・ということで、さんちゃんに惜譲。
旋盤(とフライス盤)で切削して組み立てる、蒸気機関の模型。英国製。
あと2つ、松つあんの遺品をさんちゃんに託す。ものすごく良くできた「ゲルマラジオ」。松つあんの息吹を感じられるだろうか・・・。もうひとつは「デビットクラーク」。
木製フレームを自作。
組立て。
オイルステインで塗装。
これは事務所に持ち込み、松つあん遺品の測定器ラックとして稼働開始。
ハンガーには旋盤。
事務所にはSSGとオシロとスペアナ、FGとFカウンタ、低周波オシレータ、ミリバル、RFパワー計・・・。
どれも経年30年くらいの、年代モノではあるのだが。
人間の造る(創る、作る)モノには、存在理由がある。
そのモノを手にしたヒトは、そのモノにふさわしい、「本質」を与えなければならない。
そのモノを使い倒して、自分の生の歓びを謳歌する、ということだ。
だから、モノを手に入れることは、責任と覚悟を伴う。
モノを死蔵しては、いけない。
死蔵するくらいなら、そのモノを手に入れては、ならない。
松つあんと僕は、感性/指向性に共振するところが確かにあり、時間軸において15年ほど、偶然にも相互の人生が交錯した。
それ故に、松つあんと、あるいは松つあんが慈しみ愛したこれら遺品のモノ達と、僕は特別の絆を結んだ、ということになるのだろう。
だから、僕はこの先の人生の時間(の一部を)、このモノたちに捧げなければならない。託された者としての、責務である。
タマラン。
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