自分のテーマで・・・2019年11月07日 14:57

井上尚弥選手VSノニト・ドネア選手の世紀の決戦、世界バンタム級WBSS決勝の試合が本日夜に迫った。勝ち負けがどうであるにせよ、この戦いの帰趨にハラハラドキドキそわそわと落ち着かず、尚弥ちゃん関連ニュースをネットで渉猟する日々も、今夜限りで終わり、だ。

どれほど感情移入したとしても所詮は人ごと。結局は自分の生活、人生、テーマに立ち向かって行かねばならない。

 と言っても、ありんこ集団に3割は働かないアリさんたちがいてバランスを取っているように、人によっては「気まぐれ猫/ないしはキリギリス、放浪者」的な人もいて、そういう人はそういう人で、神様・摂理様がそういうふうな存在としてお創りになられているわけなので、誰もが自分のテーマに立ち向かって生きていくべき、だなんてことにはならない。人生の意味など求めず、ただ楽しみラクチン快感を求め、放浪するように生きて行くのもそれはそれで是、である。

 そうでないと例えば太宰文学などは芸術とは呼ばれない。小職に太宰文学の本質を理解するセンサーがないだけのことであって、そこにはきっと、重要な人間の性とか、本質とか、そいうものが含有されているであろうことは疑いを入れない。そうでないと、毎年の桜桃忌にあれだけの多数の人々が現在もなお、太宰のお墓参りをする、という事実の説明がつかない。

他方、人によってはそういう生き方では納得できず、「自分の役目/レゾンデートルは何なのか?何をして人生を全うすれば良いのか?」というようなことを常に考えずにはおれない「忠犬ハチ公/ないしはアリさん」的な気質の人も多く存在するワケで、小職は紛れもなく後者のタイプである。
 やはり「道を究めんと頑張っている人=求道者」に対しては、深いシンパシイとアコガレを抱かざるを得ない。

 この点、例えば、囲碁・将棋に関心のない人にとっては藤井7段の活躍も芝野虎丸新名人の最年少記録も、どうでもよいことであり、彼らがどれほど囲碁や将棋の道を究めるべく精進しようと、囲碁将棋界のことが世の中に存在する戦争とか人口問題とか、貧困問題とか温暖化問題とかに影響するわけではない。
 しかし囲碁将棋に関心のある人、ないしはそのセンサーのある人達にとっては、彼ら若き求道者達の自己練磨、精進していく姿は、まさに自分の人生そのものに投影されるべきものである。

結局、人は、世の中とか他人とかとは無関係に、自分にとっての大事なことをやって生きて行く、ということなるのだろう。

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毎年恒例の乗鞍秋合宿、自分なりのケジメ、「秋の信州をW3で旅する」というテーマも、最近はだんだんと疲れてきた。
 来年還暦を迎える体重58kgのこの身には40年近くの時を伴に過ごしてきたこのポンコツバイクの220kgという重量が身に堪える。しかしながらこれもまた自分のテーマなので、行けるところまではこの道を続けて行かねばならんと思う。

帰路はツーリング日和の晴天で、松本から乗った中央道を諏訪で降り、峠を上がり、霧ヶ峰高原滑空場でグライダーのウインチ曳航を眺め、スキー好きだった亡父に思いを馳せながら、車山高原、エコーバレー、姫木湖の風景を愛でつつ、日だまりの大門街道を経て佐久へ下り、関越から圏央道経由でハンガーへ帰投した。

初日、霧のアゼレアラインにて


https://youtu.be/Yx4VEb6Ukq8
往く水の流れは絶えずして・・・の風情。

翌日、好天の霧ヶ峰高原にて。「カニ目」(オースティン・ヒーリー)

我らが「Field of Dreams」
大利根飛行場は過日の台風により大冠水して分厚い泥濘に覆われてしまい、現在、重機投入するも復活まではなお相当の時間と費用を要する困難な状況下にある・・・。

飛べなくなり行き場を失った空のお仲間達がワラワラと当ハンガーに押し寄せる、という感じの図。


しかし亡き松つあんから託されたこの25B、このところしばしば当ハンガーに遊びにお越しになるM田師匠に対しても「残り半分、あと10年、オレはやりますよ」と宣言してしまった手前、今年も運航開始に向けて整備せにゃならんのであった・・・。

主翼の羽布の状態を点検する。羽布修理は従来のドイツ製羽布、ドープ塗料が生産終了となり、工場でも新プロセスの構築過程にある。

いまやベテランとなりつつある航空整備士「さんちゃん」登場。一緒に作業を行う。

5年くらい前に購入したもののナカナカ交換する機会がなかったハブホイールを今回、ようやく交換することになったが、あれやこれやの問題が発生。この時代のドイツ製動力滑空機は、一品づつの手作りなのだ。つくづく・・・


↑西尾君が便乗して廻る寿司を食っているがカワイイので許せる・・・。

本格的な冬の到来の前に、なんとか浴槽を再設置したい。

松つあんの遺品整理続く。
何だかワカランものだったら捨てれば良いのだが、わかってしまうので捨てるわけにはいかない。定格や諸元や回路図にしても、昔だったら入手不可能だから捨てよう・・・になるのだが、昨今はネットでいくらでも資料が手に入ってしまうので余計に捨てるワケにはいかない・・・今や貴重品となったミズホのCW送信機。

いったん廃業宣言したものの復活の兆しある「キャリブレーション」のRFアンプキット・・・。旧FCZ寺子屋のキット。

ダブルバランスドミキサー。松つあん、生前よく語っていたなあ。

これももはや国内調達は不可能とおぼしきオムロン高周波リレー。自作TRXの受送信切替えに必須。

山盛りのポリバリコン・・・

さあっ!!!
あと数時間で尚弥がリングにあがる。
削れる限りのゼイ肉をその身体から削り落として。
ゼイ肉と一緒に、雑念も払拭されて研ぎ澄まされたメンタルで。
たった一人っきりのリングへ。
向かい合うのは2人きり。リングの外にチームがあるとしても。
自分を鼓舞し、相手を威圧する儀式もない。
闘志と相手方へのリスペクトは、静かに己の内面に閉じ込めて。
相手と自分の間に、ボールもない。
ただ、拳を交えるのみ。

だから、ボクシングはスポーツではない。エンタテイメントでもない。いわんやショーでもない。

6歳から鍛錬を初めて、20年の積み重ね。
人生はテーマを見つけたら、続けること、練習すること、基礎を繰り返すこと
それに尽きる、と信じる。

タマラン。

「感応」2019年11月14日 16:04

試合が終わって1週間、経ちました。

同じボクシングの試合を観ても感じることは本当に人それぞれで興味深いし、極論すれば「井上尚弥?誰それ?」という人もたくさんいるわけで、そういうひとたちはそういう人達で、また自分とは全く別個のセンサーとか感応力を持っているワケで。

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11Rが終わった後の、インターバルの表情が忘れられない。
直前に乾坤一擲の左ボディフックでドネアからダウンを奪っている。

自分のコーナーに戻り、トップロープにグローブをつけた両手を載せて、観客席を一瞬だけ見上げた、その表情。
忘我、というか。恍惚、というか・・・。
まだ試合の真っ最中なのに。
これまで見せた、どの表情より、印象に残る。

ドネアを左ボディで倒した。しかし倒しきれなかった。次の最終ラウンドがまだ残っている。
 それなのに、倒しきれず悔しいとか、次にどう倒そう、とか、それよりも何よりも勝ち負けそのものや、今、ボクシングの試合をやっている、ということ自体がアタマから完全にすっぽ抜けてしまったような表情だ。

仏教用語で言うところの「心身脱落」みたいな。

彼はこの瞬間、何をどのように感じていたのだろう?・・・。
そのことに興味を持つ人は、自分以外には存在しないのだろうか・・・。

セコンドのお父さんから「最後だぞ」みたいなことを言われて、そこでようやく我に帰って、少し顔を伏せて、視線を落として。コーナーに戻り椅子に座った。その一連の表情、所作がこの上なく美しかった。

いろいろな人がいろいろなシーンに関する感想をネットで寄せている。
「ボクシング」として見れば2Rの右目カット流血や5Rのストレート、9Rの被弾と必死のクリンチ、になるのだろうし、試合後の二人の2度の抱擁や、トロフィーの貸し借りの美談を話題にする人が多い。

しかし彼の人生を自分の人生と重ね合わせて俯瞰する。
「ボクシング」ではなく、彼の切り取られた人生の一瞬の一コマを目撃した。おそらくはもうこんな彼の表情は二度とは見られない、と思う。

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試合の後の、ドネア選手の言葉。
勝者から一晩だけ借りてきた「アリ・トロフィー」を二人の幼い子供達に見せて、言い聞かせる。

「頭を上げ、手を胸に当て、自分を誇りに思えることが大事だぞ」

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勝者のコメント。
初めて試合中に右目をカットして、流血して絆創膏貼って、試合後のインタビューに応じる(その後、右眼窩底と鼻骨骨折が判明)。

「やっと世界戦をやれた、ボクサーになれた、という感じ」

実際は、もう15戦目の世界戦。
プロ転向からもう7年経過。

どういう自分で在りたいか、どういう経験をしたいか。

それを仮想天秤の左に載せる。当然、それと釣り合う、重い犠牲みたいなものの何かが右の天秤に乗っていないと、均衡しない。

その「仮想天秤の均衡」に言及した発言。

視線は他人には向かわない。常に自分に向かう。
「自分は、どういう存在でありたいか?」
「自分で自分を肯定できるか?」

結局、言っていることは上のドネア選手の子供達に言い聞かせた言葉と同じだ、と解釈できる。

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NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
「引退」について問われて。

「なんなら最後は打ちのめされてやめたいなって気持ちはあるんですよ。そうじゃないと、ここまでやってきたボクシング、諦められない」。

人生を賭けてきたことを、最後には諦めなければならない。
それは人生、何だって、誰だって同じ。

これを仮想天秤の左に載せれば、それと釣り合うのは「勝利の栄光」ではなくして「打ちのめされること」=徹底した敗北。

自分の中で何と何が均衡するのか。

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以上、ネット上の多くのコメントとは、自分の感じ方は全然、違う。

それもこれも、自分が歳をとって子育ても終わって、子供二人とも独立して家を出て行っちゃって、ああもうオレの役目も終わったな~人生終わりだな~感が漂うこの年齢だからこそ、だろう。

誰か、人が他人の何かの行いとか営みについて、どのようにココロに刺さるか、何を感じるか、心に残るか、は、やはりその対象となる事柄と、傍観者に過ぎない立場ではあるけれども、その光景を見ている人の状況とか、感応性が交錯する、ということだ。

つまり、歳を食うことも、悪いことばかりではない。今だから、この年齢だから感じるられることが、たくさんある、ということだ。

最後はだいぶ、ハナシが逸れましたが。

問題は、上記のような「感応」現象が生じた後、それを糧として、自分の人生にどう向き合って行くのか、ということである。

サテ、試合も終わったし風呂でも入って寝るか・・・では済まされない。

タマランです。