「感応」 ― 2019年11月14日 16:04
試合が終わって1週間、経ちました。
同じボクシングの試合を観ても感じることは本当に人それぞれで興味深いし、極論すれば「井上尚弥?誰それ?」という人もたくさんいるわけで、そういうひとたちはそういう人達で、また自分とは全く別個のセンサーとか感応力を持っているワケで。
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11Rが終わった後の、インターバルの表情が忘れられない。
直前に乾坤一擲の左ボディフックでドネアからダウンを奪っている。
自分のコーナーに戻り、トップロープにグローブをつけた両手を載せて、観客席を一瞬だけ見上げた、その表情。
忘我、というか。恍惚、というか・・・。
まだ試合の真っ最中なのに。
これまで見せた、どの表情より、印象に残る。
ドネアを左ボディで倒した。しかし倒しきれなかった。次の最終ラウンドがまだ残っている。
それなのに、倒しきれず悔しいとか、次にどう倒そう、とか、それよりも何よりも勝ち負けそのものや、今、ボクシングの試合をやっている、ということ自体がアタマから完全にすっぽ抜けてしまったような表情だ。
仏教用語で言うところの「心身脱落」みたいな。
彼はこの瞬間、何をどのように感じていたのだろう?・・・。
そのことに興味を持つ人は、自分以外には存在しないのだろうか・・・。
セコンドのお父さんから「最後だぞ」みたいなことを言われて、そこでようやく我に帰って、少し顔を伏せて、視線を落として。コーナーに戻り椅子に座った。その一連の表情、所作がこの上なく美しかった。
いろいろな人がいろいろなシーンに関する感想をネットで寄せている。
「ボクシング」として見れば2Rの右目カット流血や5Rのストレート、9Rの被弾と必死のクリンチ、になるのだろうし、試合後の二人の2度の抱擁や、トロフィーの貸し借りの美談を話題にする人が多い。
しかし彼の人生を自分の人生と重ね合わせて俯瞰する。
「ボクシング」ではなく、彼の切り取られた人生の一瞬の一コマを目撃した。おそらくはもうこんな彼の表情は二度とは見られない、と思う。
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試合の後の、ドネア選手の言葉。
勝者から一晩だけ借りてきた「アリ・トロフィー」を二人の幼い子供達に見せて、言い聞かせる。
「頭を上げ、手を胸に当て、自分を誇りに思えることが大事だぞ」
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勝者のコメント。
初めて試合中に右目をカットして、流血して絆創膏貼って、試合後のインタビューに応じる(その後、右眼窩底と鼻骨骨折が判明)。
「やっと世界戦をやれた、ボクサーになれた、という感じ」
実際は、もう15戦目の世界戦。
プロ転向からもう7年経過。
どういう自分で在りたいか、どういう経験をしたいか。
それを仮想天秤の左に載せる。当然、それと釣り合う、重い犠牲みたいなものの何かが右の天秤に乗っていないと、均衡しない。
その「仮想天秤の均衡」に言及した発言。
視線は他人には向かわない。常に自分に向かう。
「自分は、どういう存在でありたいか?」
「自分で自分を肯定できるか?」
結局、言っていることは上のドネア選手の子供達に言い聞かせた言葉と同じだ、と解釈できる。
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NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
「引退」について問われて。
「なんなら最後は打ちのめされてやめたいなって気持ちはあるんですよ。そうじゃないと、ここまでやってきたボクシング、諦められない」。
人生を賭けてきたことを、最後には諦めなければならない。
それは人生、何だって、誰だって同じ。
これを仮想天秤の左に載せれば、それと釣り合うのは「勝利の栄光」ではなくして「打ちのめされること」=徹底した敗北。
自分の中で何と何が均衡するのか。
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以上、ネット上の多くのコメントとは、自分の感じ方は全然、違う。
それもこれも、自分が歳をとって子育ても終わって、子供二人とも独立して家を出て行っちゃって、ああもうオレの役目も終わったな~人生終わりだな~感が漂うこの年齢だからこそ、だろう。
誰か、人が他人の何かの行いとか営みについて、どのようにココロに刺さるか、何を感じるか、心に残るか、は、やはりその対象となる事柄と、傍観者に過ぎない立場ではあるけれども、その光景を見ている人の状況とか、感応性が交錯する、ということだ。
つまり、歳を食うことも、悪いことばかりではない。今だから、この年齢だから感じるられることが、たくさんある、ということだ。
最後はだいぶ、ハナシが逸れましたが。
問題は、上記のような「感応」現象が生じた後、それを糧として、自分の人生にどう向き合って行くのか、ということである。
サテ、試合も終わったし風呂でも入って寝るか・・・では済まされない。
タマランです。
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