アリとキリギリス ― 2012年07月05日 11:29
「アリとキリギリス」は有名な寓話。
有名であると同時に、時代を超え語り継がれている。
有名であると同時に、時代を超え語り継がれている。
歴史性がある、ということは普遍性がある、ということ。
普遍性がある、ということは、価値がある、ということ。
価値がある、ということは、その価値の本質を端的に
要約できる、ということ。
普遍性がある、ということは、価値がある、ということ。
価値がある、ということは、その価値の本質を端的に
要約できる、ということ。
法律家の視点として、この寓話に端的な「要約」を与えるとしたら、
「因果関係」
原「因」があれば、結「果」がある。
アリにはアリの「原因」があり、その「結果」を享受する。
キリギリスにはキリギリスの「原因」があり、その「結果」を甘受しなければならない。極めて峻厳な、原「因」と結「果」の関係。それが因果関係。
思えば、法律家は民事でも、刑事でも「因果関係」がメインテーマ。民法で言えば416条然り。刑法で言えば相当因果関係論/抽象的符合説然り。
しかし、全ての結果に原因がある、という考え方は危険だ。最近は、街を歩いているだけで、赤の他人に刺殺されてしまうというような通り魔事件が続発している。それを「前世の因果」とか言い出すと、悪しき振興宗教に振り回されることになる。
それに、現宇宙がビッグバンで膨張して形成された、というスケールで考えれば、そこには原因も結果も因果関係もヘッタクレもあったもんじゃない。因果関係なんてことを考えたり実践したりするのは、狭い人間界だけのことだ。
人間と、その他の生物の、もっとも根元的なメルクマールとは・・・?
人間以外の生物、ほ乳類や昆虫が、餌を探し生殖し営巣する・・・という営みの中に「因果関係」という概念はあるんだろうか?。
お猿さんは、原「因」を意識して、結「果」をコントロールしよう、という営みをしているのだろうか。棒を使って、檻の外のバナナを引き寄せるとき。
あるいはカラスが石をくちばしでくわえて、卵を割って食べるとき。たぶんそれは因果関係の理解と実践ではない。
全ての生物の中で、唯一、人間だけが、因果関係を(その概念的存在を認識・理解して)コントロールできる(しようとする)存在。
「結果」に対して、常に「原因」があるとは限らないが、人間界において、「原因」を与えれば、所定の、所望の「結果」に至るだろう、ということは、普遍的な理解であり、営みだ。
もうひとつは「時間(感覚)」ではなかろうか。
「時間」の概念は「宇宙」につながる。時間と宇宙とは、もしかしたらひとつのものだ。時間はシステム(系)の速度や重力で遅くなったり早くなったりするらしい。宇宙物理学とか、相対/特殊相対性理論のムツカシイことは全然わからない。ヒッグス粒子はみつかったらしいが。
1次元、2次元が平面、3次元で立体。ここまではお猿さんでも直感でわかってる気がする。バナナをその手で掴んだときに。
しかしお猿さんが「時間」とか、「人生」に相当する「猿生」を理解したり、
想念したりしているとは思えない。
そうすると、「因果関係(の理解と実践)」と「時間(感覚)」は、人間というものの根元的属性と言える。
この2つのセンサーを「必要かつ充分に」保有しているかどうかで(あるいはそういうセンサーが自分には足らない、あるいは過分だ、という「気づき」も含めて)、その人の「人」生は相当に違ってくるだろう。
年金を払わなかった人は(それが破綻しないことを前提とする)老いて生活の資に欠乏するかも知れない。
時間感覚が希薄で、自分が老いてやがては死を迎える、ということに対する想像力が希薄であれば、それに気付いたときに愕然とするだろう。
自分が自分の外に発散したネガティブなエネルギーは、必ずや自分に
戻ってくるのだ、ということに思い至らない人間は、常に怒りや不愉快な思いを重ねて人生を終えるだろう。
つまりは、あまりに「因果関係」や「時間(感覚)」というものを等閑視して生きていくと、その人生の結末は相当に悲惨なものになる可能性が高い。
他方、 「因果関係」の意識や、とりわけ「時間感覚」があまりにも鋭敏だと、人はきっとハッピーにはなれない。
血を盛る袋は、心臓。
時を盛る袋は、時計。
心臓がひとつ鼓動するたびに、時計の秒針がひとつ、進む。それはいつ訪れるかも知れない、自らの「死」への警鐘。
しかしながら、そういったセンサーが付与されていることも付与されていないことも、DNA(「摂理」)が決めているのだとすれば、与えられているから良い、与えられていないから悪い、ということではない。背が高いとか低いとか、目がいいとか悪いとか、鼻が利くとか利かないとか、と同じことだ。
あるいは、見かけ上、アリのように働いている人間でも、その実、「因果関係・時間の経過」なんて、これぽっちも頭の片隅にありませんよ、という人はたくさんいるだろう。
一方、一見、キリギリスのように生きているように見える人間でも、内心では、因果関係の峻烈さにおののき、自らの時間感覚の鋭敏さをもてあまし、心に悲しみを秘めつつ、日がな1日、好きなことをして暮らしている、という人もいるだろう。夏目漱石「それから」の主人公、高等遊民の代助のように。
You can only be you, as I can only be me....
この2つのセンサーを「必要かつ充分に」保有しているかどうかで(あるいはそういうセンサーが自分には足らない、あるいは過分だ、という「気づき」も含めて)、その人の「人」生は相当に違ってくるだろう。
年金を払わなかった人は(それが破綻しないことを前提とする)老いて生活の資に欠乏するかも知れない。
時間感覚が希薄で、自分が老いてやがては死を迎える、ということに対する想像力が希薄であれば、それに気付いたときに愕然とするだろう。
自分が自分の外に発散したネガティブなエネルギーは、必ずや自分に
戻ってくるのだ、ということに思い至らない人間は、常に怒りや不愉快な思いを重ねて人生を終えるだろう。
つまりは、あまりに「因果関係」や「時間(感覚)」というものを等閑視して生きていくと、その人生の結末は相当に悲惨なものになる可能性が高い。
他方、 「因果関係」の意識や、とりわけ「時間感覚」があまりにも鋭敏だと、人はきっとハッピーにはなれない。
夏目漱石は「それから」の中で、神経衰弱を患う主人公、代助に語らせている。
「血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何(いか)に自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう」。
血を盛る袋は、心臓。
時を盛る袋は、時計。
心臓がひとつ鼓動するたびに、時計の秒針がひとつ、進む。それはいつ訪れるかも知れない、自らの「死」への警鐘。
人間としての基本的属性である「因果関係(の理解と実践)」とか「時間(感覚)」にあまりに強く囚われてしまうと、神経が摩耗してしまう。
しかしながら、そういったセンサーが付与されていることも付与されていないことも、DNA(「摂理」)が決めているのだとすれば、与えられているから良い、与えられていないから悪い、ということではない。背が高いとか低いとか、目がいいとか悪いとか、鼻が利くとか利かないとか、と同じことだ。
あるいは、見かけ上、アリのように働いている人間でも、その実、「因果関係・時間の経過」なんて、これぽっちも頭の片隅にありませんよ、という人はたくさんいるだろう。
一方、一見、キリギリスのように生きているように見える人間でも、内心では、因果関係の峻烈さにおののき、自らの時間感覚の鋭敏さをもてあまし、心に悲しみを秘めつつ、日がな1日、好きなことをして暮らしている、という人もいるだろう。夏目漱石「それから」の主人公、高等遊民の代助のように。
アリ的人間だから「因果関係・時間感覚」のセンサーが鋭敏である、キリギリス的人間だからそのセンサーを与えられていない、ということでもない。
それに、アリ的人間はどうしたってキリギリスになれない。「どうしてそんなに働くのですか」との問いかけに、アリはきっとこう答えるだろう。「性分なんです。あなたのようにのんびりしていると、逆にストレスが溜まってしまう」。
キリギリス的人間がアリ的人間になることができないのはよく理解しうるところだ。そんな面倒、苦労はまっぴらゴメン、ということに尽きる。
それに、アリ的人間はどうしたってキリギリスになれない。「どうしてそんなに働くのですか」との問いかけに、アリはきっとこう答えるだろう。「性分なんです。あなたのようにのんびりしていると、逆にストレスが溜まってしまう」。
キリギリス的人間がアリ的人間になることができないのはよく理解しうるところだ。そんな面倒、苦労はまっぴらゴメン、ということに尽きる。
You can only be you, as I can only be me....
人間は、どこまで行っても生物。
でもやっぱりすごく特殊な存在。
どこまで行っても他の生物とは、どこか一線を画す、何か、根元的に異なる存在。
あらゆる生物の中で、唯一、「因果関係」と「時間」を理解し、想念し、実践する存在。
これは人間がエラい、特別な存在だ、というわけではない。良くも悪くも、そういう存在として「摂理」により作られてしまっている、ということなのだろう。
人間が、因果関係を駆使して、物質から無限のエネルギーを取り出して使おう、と考えるとき。
人間が、生命に永遠性=時間を与えようとして、遺伝子をコントロールしようとするとき。
そういうとき、人間は「摂理」に抗う存在なのだろうか?
それとも、そういう人間の存在態様も含めて、「摂理」は人間を許容しているのだろうか。
az君、先日は、君と、そんなたわいもないことを語り合って、良く晴れた午後のひとときを過ごしたね。とても楽しかったよ。君と出会った17歳のあの日から、もう35年も経つなんて、何だか不思議だね・・・。
ああ。仕事しなくちゃ・・・。
ハンガーハウス塗装作業、その他 ― 2012年07月06日 19:31
ハンガーハウスの塗装工事をDIYで。
「シッケンズセトールHLS」を使用、1度目の塗装は昨秋に完了しており、今回は2度目の上塗り作業。高所作業台を使い、軒下から屋根下の上部まで、くまなく塗っていく。ペンキ缶をかついでタワーを登ったり降りたり、大汗をかきながら、ひたすら無心になってハケを動かす。見上げれば梅雨の合間のきれいな青空と白い雲。
「シッケンズセトールHLS」を使用、1度目の塗装は昨秋に完了しており、今回は2度目の上塗り作業。高所作業台を使い、軒下から屋根下の上部まで、くまなく塗っていく。ペンキ缶をかついでタワーを登ったり降りたり、大汗をかきながら、ひたすら無心になってハケを動かす。見上げれば梅雨の合間のきれいな青空と白い雲。
タンデムファルケSF-28A(今回は胴体のみ)がハンガーアウトしていった。
夜、敬愛してやまない大師匠M田さん、来訪。
我がポンコツ25Bの主翼の羽布張り再塗装、及びバックキャノピーの修理について多大なる示唆を受ける。あれこれと作業上の細かいことを語り合う、至福の時間・・・。この人がいたから僕の夢がかなった。
バイク整備&来客多数 ― 2012年07月20日 18:58
主翼再塗装作業開始 ― 2012年07月27日 18:18
4年前は「とりあえず飛ばそう」ということで旧塗装膜の上にガン吹きしただけ。その結果、現状はこんな状態。なにしろ40年以上の機齢だ(1971年製造)。その頃と言えば小職は11歳。初めてのエンジン、エンヤ09を買った頃である・・・。
今回はそのドイツ時代の旧塗装を剥がし木材の状態を確認し、ドープで羽布を張って再塗装するという工程。ダブルアクションサンダーで主翼塗装を削る夜なべ仕事。ハンガー内はモウモウたる粉塵に包まれる・・・。
翌日も朝から主翼塗装を削る。
さらに削る・・・。忘我のひととき。至福の時間と言って良い。
大先生M田巨匠がご光臨遊ばす。削り具合と木材の状況の確認。
「大変良い出来です。このまま続けてください」
「ありがとうございまっすっ!!!」
翼端塗装にも塗装クラック発生。削るとやっぱり木部にクラックがある。
ヒンジ部分の補強を含め、ここはFRPを張る。
4年前に板倉滑空場「整備スクール/FRPコース」を受講して会得したワザを使う。FRPならオレに任せろっ!
オマケ
やたらとなにやかや作りたがるボス。出来映えは・・・ノーコメ。
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