労働概念の相対性2014年01月24日 12:00

トイレ製作が山場を迎える。

ほぼ完成。これで、ここ6年ほどツラい思いをしてきた「厳冬期マイナス
7度の環境下における早朝4時の屋外トイレでの用足し」から解放される。便器から後光が射すようだ。

Stairway to "トイレ"
ロバート・プラントのしわがれたヴォーカルが聴こえてきそうだ。
貴婦人さん、「光るもの全て」が黄金ではありませぬよ。

ボイラーコントローラもようやく室内に移動・・・

松つあんは相変わらず25Bを使った実験にご執心

タンデムファルケのバラし作業をお手伝い。

操縦教官の担当の合間に「開墾」作業を行うカッキー。これはツライよね。汗だくで息が上がってました。

模型飛行機全般、とりわけ「Uコン」について造詣の深い長屋教官

夜も更けて、ちょっとした電子工作を楽しむ。

             労働概念の相対性

弁護士として働く→お金を得る→そのお金を大工さんに支払ってトイレ設置をやってもらう。

土日は弁護士の仕事をしない------→自分でトイレ設置をDIYする。

どこが、違うのだろうか?

さらに単純化すると、

・自分の身体を使って→お金を得て→それで買う
・自分の身体で直接、大工仕事をする。

つまり、
お金を媒体とするか、しないか、が違う、ということがわかる。

さらにその本質を考えると、(万事、お金を中心とする)資本主義社会の枠内で処理するか、そこから脱却するか、ということかも知れない。別に、資本主義の中だけで生きているわけではないし、人の生存において、資本主義は必須ではない。

そうすると、大工仕事をしているその身体活動は、労働そのものではないだろうか? お金を稼ぐ労働ではなくて、直接、所望の結果を実現しようとする身体活動。それを「労働」と名付けるのであるならば。
かなり多くの人が「弁護士として稼いで、そのお金を大工さんに払ってやってもらったほうが効率的では?」などとのたまう。しかし効率が全てではないし、自分はこれが楽しいからやっているのである。

他方、多くの人が興味を寄せる「旅行」とか「グルメ」には全く興味がない。旅行の計画は面倒このうえないし(バイクツーリングは好きだが、いつも行き当たりバッタリのキャンプ場泊)、食事なんかさっさと終わらせて次の作業にとりかかりたい。

 そもそも、お金で解決できないことは多々ある。否むしろ、この年になるとお金では解決できないことのほうが多いくらいだ。例えば、ギター&ピアノが上手くなりたいという願望を、お金で解決することはできない。ピアノであれば、ただひたすら真摯に鍵盤に向かうしかないのである。そこでは、その対象に投じた「時間」が全てだ(工夫の是非は別論として)。

と、いうわけで、この先も「自分の身体活動によって直接、願望を実現せんとする営み」を続けることになるのである。それを「労働」と呼ぶかどうかは、どーでもいいことで。

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