「時代」2020年12月31日 12:00

サンエスで・・・

ジムニーの鉄っちんホイールを洗浄。

裏錆びは・・・

POR15塗布・・・これであと20年は持つ。

マスキングして非鉄バインダ刷毛塗り・・・これを4本、繰り返し・・・

塗装準備して・・・

PG80サフのガン吹き・・・

昼夜2連チャンのサフ/サンディングで爪がなくなり指先が痛い。
ピアノ/ギターを2週間弾けず・・・の後、PG80白のガン吹き・・・

DIYでオールペンしたフレンチグレーに鉄っちんホイールの白が映えます・・・実はバイク系後輩君がジムニーをでっかくしたような「ランドローバーディフェンダー」という4輪に乗っていて、その白ホイールがオサレだな~とかねがね思っており、この秋、ようやく塗り完した次第。

引き続き別の後輩君からもらったジムニーアルミホイールをサンエス+高圧洗浄後、軽くサンディング。・・・これもここ10年来の宿題だったが、コロナ禍の今年、ようやく時間ができて着手・・・

またまたマスキングして非鉄バインダ刷毛塗り。これを4本繰り返し。

並べてみる。

サフのガン吹き。またまたサフのサンディング半日作業で爪が削れる
・・・痛えよ。

PG80白のガン吹き・・・

飛び入りのさんちゃん、「僕にもちょっとやらせてください」と。

並べてみる。

ガンのバラし、洗浄。真冬のシンナー作業は指先がボロボロになりますな。

*******************  25B関係 ************************
体重測定。

クラブ員がワラワラと寄ってきます。

さんちゃんの作業。前日の雨で芝が濡れております。ツナギの膝が濡れないよう、養生シートを敷いておきました。ちなみに水平尾翼のバラし準備作業は小職担当。

例年は小職がテストパイロットを担当しますが、今期は昨秋の台風で飛行場水没→コロナ禍により機体の耐検切れ+小職は特操審切れの状態なので、「若いがイイ腕してやがるぜ」系の主任教官殿+主任整備士・・・のコンビで耐空検査テストフライトです。

https://youtu.be/d6IvuF-YWSk


スピードカナードの横に25B。オネダン、10倍以上の開きあり??。

アプローチを打つ25B。この情景を地上から見るのも10年ぶりだ・・・。

背中に夕日を浴びつつSQ(スコワーク)対応作業を続ける主任整備士三科君。彼は、この冬、かねて保有の動力滑空機の航空整備士資格に加え、「飛行機/ピストン」の航空整備士資格/国家試験にも合格しました。立派なもんです。

フライト後は毎回、ひとりでカバーリング/係留作業。小一時間ほどかかります。その間、スクワットをやっているカンジなので下半身強化に役立つ。

ハンガーへの帰路、その日の進捗をM田大明神にご報告奉ります。たまにお供物のお供えもします(大判焼きなど)。5分ほどで退散しようとすると、「ま、もうちょっとゆっくりしてお行きなさい」と言われたりします。

****************** クリスマス休暇 ***********************

最近、ピアノの師匠なのか、グライダーの師匠なのかワカランようになってきたH岡巨匠に右席ご同乗いただき、そのご指導のもと、リハビリフライトの猛特訓、計4時間余り・・・おかげ様で無事、「特操審」をパスし、ソロフライト(機長)資格を回復いたしました。

その後巨匠から、「Mアニキ(年下だが)」のパイパー飛ばすよ~乗りなよ~とのお誘いを受け、実に久しぶりの陸単機右席搭乗・・・ギア操作やプロップレバー、フラップレバーなどを右席から操作させていただきました・・・。しかしよくもまあ、超低性能ポンコツ25Bの教習直後にこんなハイパホ機を飛ばせるもんだ・・・。

本年度、飛び納め。
昨秋の大型台風による飛行場の大冠水クローズ~その後のコロナ禍/非常事態宣言によるクラブ活動停止により、1年と半年ぶりのソロフライト。
 久しぶりに我が25Bで、ひとりで飛んだお空は、なんだかナツカシイ感じがいたしました・・・真冬の静穏な気流よ・・・

ところが帰りにパンク!

大急ぎで予備ホイールに交換・・・

お正月に地元RCクラブの新春フライト会で飛ばすRC機を整備・・・

本年最後の製作物・・・

ラジコンエンジン始動用バッテリのアルミケースでした。松つあん遺品のアルミ板を加工し、リベットで組立て・・・

本年最後のDIY作業・・・

木製ゲートのセンターにタイヤを追加・・・

今年も多くの友人、仲間達、センパイ後輩、皆々様のお世話になりました・・・誠にありがたく、厚く御礼申し上げます。
それでは、良いお年をお迎えください・・・

たまらん。

************** 年の瀬 特別寄稿 「時代」 ****************

昭和45年前後、小4から小5の僕は、東京は中野区大和町のRCヒコーキ専門店「戸塚模型店」で丁稚奉公をしていた。ラジ技で同店の広告を見て訪問し、毎日通うようになった。「丁稚」というのは具体的には、「ソコ持ってて」とか、お店の電話番、とか、お客様のオイルまみれプロポのお掃除、とか、ラーメンのどんぶりをお店に返しに行く、とか、そういうことである。

 3畳ほどの空間で展開されるRC飛行機製作の小世界。それはバルサキット+木工ボンド+セメダインC+エポキシ+絹張りドープ/ウレタン仕上げ・・・という職人技が華やぐ「時代」でもあった。
 この丁稚奉公のプロセスを通じて、「僕」はそれらの基礎技術を身につけ、工藤プロダクトの「アトラスジュニア号」を製作した。

だから後年、M田大明神に私淑したときも、往年の戸塚オヤジから盗んだ職人技を実機世界の技法にアレンジしていくことで、抵抗感なく実機の修理整備作業に馴染むことができた。
 と、いうより、我が25Bの木工、接着、被覆(羽布張り)、塗装などは少年時代のRC機製作と本質的にはさして変わらんのである(FRP技術だけは別格。板倉滑空場のFRP講習会に参加してください。これはオススメです)
http://www.glider.jp/category/seminar/

しかし、その後の数年で、古き良きバルサキット木工製作+絹張り塗装・・・のRC界は大変革の「時代」を迎える(高度経済成長と同期して)。
 瞬間接着剤や30分硬化エポキシが普及し、被覆はフィルム張りとなり、手間のかかる絹張り塗装は「時代」遅れとされ、そもそもバルサキットでなく、いわゆるARF機(Almost Ready to Fly)の全盛「時代」を迎えていく・・・。

1968年のラジ技。「昼食」でなく「中食」支給とは・・・

藤原理工と戸塚模型店の広告ページ

当時のラジ技巻末にあった「行方不明機」欄が「時代」を感じさせる。この頃のRC機搭載ラジオは不安定で、機体はトンデモナク高価なものだったのだ・・・。
 この欄に「アトラスjr」が2機掲載されている・・・。小5の私は「この機体がノーコンのまま飛び去るのは自律安定性/復元力に優れる証だ」と解釈し、人生最初のラジコン機としてこの機体を選択したのだった・・・。

後年、ヤフオクで落札した。仕事を本格的に引退したら作ろうと思っている。当然、絹張りドープウレタン仕上げで。今や生産終了、調達不能と思しき「エサキシルク」や「東邦化研のドープ」も在庫確保済み(売りません)。

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小6から中2にかけて没頭していたアマチュア無線界は、まだAMの残滓が残る頃で、AM回路であれば送受信機は自作するのが当たり前、という「時代」であった。
 CQ誌は先端雑誌であったが、初心者向けの「初ラ」「ラ製」には自作リグの記事がさかんに掲載され、僕はアキバの電子部品街を徘徊しては、パーツを調達しこれらの回路を自作していた。

だから後年、実機の世界に入って、故松つあんが担当するハーネス配線作業やラジオの搭載や接続、設定、電波測定、アンテナの調整作業etcには全く抵抗感なく親しむことができた。これらの作業に関して、少年時代の無線機自作知識がどれほど役にたったことか。

しかし、AM自作全盛だった無線界は、その後のわずか数年でメーカー製SSBリグが自作AMを駆逐し、SSB回路自作はかなりの困難を伴うことから、電話級ライセンスを取得したらメーカー製リグを買って開局、とりわけ6mAM界ではRJX-601の爆発的ヒットにより、既製品リグで開局ラッシュ、という「時代」を迎える。
 SSB自作花盛りの「時代」を迎えるには、もう5年ほども待たなければならなかった。秋月電子からSSBジェネレータキット「熊本シティスタンダード」が販売されたのは1981年頃のことである。

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高校から大学にかけて没頭したバイク生活の対象はCB125JXとW3だった。CBは上野バイク街で7万円、W3はセンパイから8万円で購入した。
僕はこれらのバイクで、キャブの分解、とりわけオーバフローの対処、具体的にはフロートバルブの段付き摩耗であるとか、それを交換するためにピンを抜いてフロートを外すとか、はずした真鍮のフロートに腐食穴が開いて沈没してた、とか、プラグの火花はコンタクトブレーカがイノチで、接点の紙やすり研ぎやコンデンサ、コイルの導通、直流抵抗値の確認、点火時期調整、タコ棒使ってバルブシート研磨やポート密閉性の確認、タペット調整とかピストンやカムの交換とかをしていた。

これらの作業知識経験が、その後の25Bのエンジン廻りの整備調整に
どれほど役にたったかは言うまでもない。
 なにしろW3のシリンダを4個にして配列を水平対向にすれば、そのまんまリンバッハみたいなもんで親近感があったし、実機のマグネトーを分解すれば、中身はコンタクトブレーカとコンデンサと点火コイルで、そのまんまW3そっくりだった。

しかしその数年後の「時代」のバイクになると、例えばSR400などはキャブをバラす必要もなく、ポイント点火時期調整も不要、カムチェーンもほぼ自動調整、ヘッドやピストンをバラす機会もなく、常に絶好調で4万Kmほど乗って手放した。ドレスアップはしたけれど「SRをイジった」という記憶はほとんどない。

昔のW3パーツの注文票が出てきた・・・

乗鞍ツーリングでライト/電装系不調に陥ったW3の修理。ポジションライトの配線が断線しておりました。

9月の車検時OKでツーリング前日に10時間以上充電したのに乗鞍の朝の外気温(2℃くらい)に負けて始動不良となったバッテリも新品交換。

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鋼管羽布張り木造主翼リンバッハ1700の我が25Bと対峙していく様々な局面において、「こいつはオレが辿ってきた少年時代の学びの集大成じゃないか」と思えて仕方がない。

もし自分の少年時代が、数年遅れて、ARFや瞬着接着剤、フィルム張り、プロポ全盛RC飛行機の「時代」であったなら・・・。

もし自分が無線機を自作することなく、RJX-601を親にポンと買ってもらって開局するのが普通の、「少し後の時代」に少年時代を迎えていたら。

もし自分がCB125JXやW3のエンジン整備修理、腰上OHなどをやる必要もなく、ほとんど整備調整をする必要のないバイク全盛の「時代」に育っていたら・・・。

きっと、鋼管羽布張り木製主翼リンバッハ1700 OHV水平対向4気筒に対峙していくことに、かなりの困難を伴ったであろうことは想像に難くない。

逆に言うと、僕よりおそらく年齢で5歳以上年下の人、RC機をやったことがあっても、ARFやフィルム張り、プロポが当たり前の「時代」の人とか、無線機は作るのでなく買う「時代」でした、という人や、バイクには乗っていたけれど点火時期やキャブのバラしやタペット調整やカム/ピストン交換やバルブシート研磨作業はやったことがない、という「時代」に育った人達には、1960年代のポンコツ動力滑空機をメンテ整備修理することにかなりの困難が伴うだろう・・・。

ここまで想いを巡らせて、やっとわかった。

亡き師匠の松つあんや、M田大明神の職人技を垣間見て、どうしてこの人達はこんなにスゴイのだろう、とうてい追いつけるものではない、と感じるのは何故だ?。この圧倒的距離感は、何なんだ???・・・。

彼らは、僕より、さらに10年ほども「古き良き、何もない時代」に「少年時代」を過ごし、そして「全てを自分の手で作ってきた人達」なのだ、と・・・。

とまれ。

RC模型飛行機、アマチュア無線(電子工作)、バイク・・・という、それぞれの段階において、あの郷愁の昭和、古き良き「時代」に少年の日を過ごすことができた自分のシアワセを想う。そんな年の瀬の候・・・

タマラン。